人生100年時代の生存戦略を読み解く「鎌倉殿の13人」考察
歴史上の人物たちから学ぶ、新たな視点と生きるためのヒント 8-前編
2022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。脚本は、『新選組!』、『真田丸』に続き、三谷幸喜氏が務めます。
舞台となるのは、平安末期から鎌倉時代前期。北条義時を主人公に、源頼朝の挙兵から源平合戦、鎌倉幕府の樹立、御家人による13人の合議制、承久の乱まで激動の時代を描きます。朝廷と貴族が政治の実権を握っていた時代から、日本史上初めて、武家が政治を行う時代へと突入する、まさに歴史の大きな転換点とも言うべき時代。ここから中世という時代の幕が開く歴史のターニングポイントを、三谷氏らしいコミカルな演出も交えながら描く、予測不能のエンターテインメントです。
このコラムでは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を深読みしつつ、ドラマの中に描かれる史実を取り出して解説します。そして、歴史上の人物たちの生き方や考え方から、現代に活用できる新たな視点を紹介していきたいと思います。
目 次
1. 二代目鎌倉殿・源頼家は暗君だったのか?
第26回「悲しむ前に」で源 頼朝(大泉 洋)がこの世を去ると、長男である源 頼家(金子 大地)がその跡を継いで二代目鎌倉殿となりました。建久10(1199)年1月26日のこと、まだ18歳でした。
頼家は、『吾妻鏡』では暗君として描かれています。とはいえ、『吾妻鏡』は、北条氏側の史観で綴られた歴史書ですので、そこに書かれた記録を鵜呑みにするわけにはいきません。かつては、『吾妻鏡』どおりの暗君という評価もされていた頼家ですが、近年では歴史研究者の間でも、その評価は疑問視されています。『鎌倉殿の13人』の時代考証を務める坂井 孝一氏もそう考える一人です。
たとえば、頼家は蹴鞠に没頭して政治には無関心だったと『吾妻鏡』には批判的に描かれています(「御所の御鞠也。凡そこの間政務を抛(なげう)ち、連日この芸を専らにせらる」)。しかし、この時代、蹴鞠と言えば朝廷で皇族や貴族が嗜む高貴な遊びで教養のひとつです。多芸多才で知られる後鳥羽上皇(尾上 松也)は、その特徴を表現するための演出か、登場場面では毎回何らかの遊びを側近たちと繰り広げています。蹴鞠ももちろん得意で、初登場シーンでは蹴鞠を先ほどまで楽しんでいた様子が伺えました。
朝廷と対等に渡り合うためには、皇族や貴族たちが嗜む教養を身に付ける必要があったのです。そのための教養のひとつが蹴鞠でした。蹴鞠を経験したことのない武士たちも蹴鞠を習得する必要があり、そのために平 知康(矢柴 俊博)が蹴鞠の師匠として呼ばれていたのです。政子(小池 栄子)も頼朝と出逢ったばかりの頃、気を惹くためにわざと頼朝の部屋の前で蹴鞠を練習して見せていました。田舎暮らしの政子であっても、「都から来た頼朝様であれば蹴鞠が得意なはず」と疑いもなく思うぐらい、「高貴な人の教養=蹴鞠」というのが、当時の常識だったことを表す場面だったと言えるでしょう。ドラマの中では、毎夜、頼家が一人で蹴鞠の練習に励む様子がたびたび映し出されました。しかし、遊びほうけている暗君の様子を描くためのシーンというよりも、周囲を信じられず次第に孤立しながらも朝廷との共通言語となる蹴鞠を身に付けることで政(まつりごと)に役立てようと必死に足掻く向上心の表れのようにも見えました。「鞠を蹴っている間は、心が落ち着く」と頼家は北条 義時(小栗 旬)に語っていますから、蹴鞠は頼家にとって心の拠り所のひとつだったのではないかと思います。ドラマの中で蹴鞠に興じる頼家の姿は『吾妻鏡』に描かれるように遊びほうける暗君を示すレトリックとしてのみ使われていたわけではないでしょう。
2. 鎌倉殿・源頼家と13人、合議制とは何だったのか?
ドラマのタイトルの由来にもなっていると思われる十三人の合議制も、かつては頼家の政治力がないため、その権力(親裁権)を奪うために発足した制度だと考えられていました。それが、『吾妻鏡』建久10(1199)年4月12日条に記されている「頼家による訴訟の聴断停止(※1)」と「十三人の合議制の発足(※2)」です。
※1「諸訴論の事、羽林(=頼家)直に決断せしめ給ふの条、これを停止せしむべし」
※2「向後大少の事に於て、北条殿(=時政)、同四郎主(=義時)、兵庫頭(中原)広元朝臣、大夫属入道善信(三善康信)、掃部頭(中原)親能在京、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、藤九郎入道蓮西(安達盛長)、足立左衛門尉遠元、梶原平三景時、民部大夫(二階堂)行政等、談合を加へ、計ひ成敗せしむべし」
しかし、近年では訴訟の採決権を奪われたことを指すわけではなく、直接、訴訟案件を頼家に取り次ぐのはこの13人に定めるという意味だったのではないかと考えられています。
ドラマ(第27回「鎌倉殿と十三人」)では、訴状の山に難儀する若い将軍の負担を助けようと義時が考えたアイデアが、十三人の合議制の土台となっていました。四人の文官たちがまずある程度、評議に道筋をつけた上で頼家に取り次ぎ、それを頼家が採決するという手順を踏むことで頼家の負担を減らしながら面子は傷つけないようにするというアイデアです。しかし、その仕組みに比企 能員(佐藤 二朗)も、北条 時政(坂東 彌十郎)も加わりたいと言い出した辺りから雲行きが怪しくなります。それぞれに比企側の御家人、北条側の御家人を足していき、結果十三人となってしまいます。
妙本寺 比企能員一族の墓 妙本寺 比企氏菩提寺 金剛寺
結局、自身を軽視されたと捉えた頼家は宿老たちを信じられなくなり、自分も若い六人の近習を身近に置いて、宿老たちとは対立する姿勢を見せることとなるのです。父を見習って立派な鎌倉殿になろうと意気込んでいたところでプライドを傷つけられてしまったために、このような対立が生まれてしまったということでしょう。
3. 優秀な北条泰時と引き立て役の源頼家
ただし、頼家が暗君として描かれる場面もドラマでは見られます。安達 景盛(新名 基浩)の妻、ゆう(大部 恵理子)を自分の側室にしようとし、さらに自分の言うことを聞かないことに怒って安達親子の首をはねるように命じたのです。結局、政子が諫めてその場を収めることになりました。これは『吾妻鏡』の正治元(1199)年7月20日条~同年8月20日条に書かれていることです(「景盛を誅す可しの由(よし)沙汰有り」)。
また、『吾妻鏡』同様、北条 泰時(坂口 健太郎)を相対的に美化するため、頼家をわざと愚鈍な人間として描写しているように見える場面もあります。元服前の初対面の場面でも、幼いながら既にしっかりとした所作を身に付けた金剛に対し、金剛のようには振る舞えない万寿という描かれ方がなされていました。また、頼朝の跡継ぎたることを御家人たちに知らしめる場であった富士の巻狩ではさらにあからさまな描写が見られました。簡単に獲物をしとめた金剛に対し、頼家の弓はなかなか獲物に当たりません。結局、金剛のしとめた鹿を生きた鹿のように細工して頼家に射止めさせることでなんとか跡継ぎとしての面子を保つという様子が描かれていたのです。
しかし、『六代勝事記』という鎌倉時代前期に書かれた歴史物語では、頼家は「百発百中の芸に長じて、武器武家の先にこえたり」と武勇に優れた人物として描かれています。『吾妻鏡』建久4 (1193)年5月16日条にも、「将軍が家督の若君(=頼家)始めて鹿を射令め給ふ」とあるだけで、さすがにそこまで頼家を貶めた描写はありません。とすると、ここはあえてフィクションとして、優秀な金剛に対し愚鈍な若君の頼家という描写を見せたということでしょう。
それでも、泰時は頼朝にとっての義時のように、頼家を最後まで支えようと奮闘しました。
『鎌倉殿の13人』の中では、プライドが高く努力家として描かれた頼家。頼家に残された時間がもっとあったならどのように成長しただろうか、頼家が長生きする世界線も見てみたかったと、もどかしくも感じます。しかし、もちろん歴史を変えることはできません。
8-後編 に続く
並木由紀(ライター、小説家)
大学院では平安時代の文学や歴史、文化を中心に研究。別名義で『平安時代にタイムスリップしたら紫式部になってしまったようです』、『凰姫演義』シリーズ(共にKADOKAWA)など歴史を題材とした小説を手がける。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』