人生100年時代の生存戦略を読み解く「鎌倉殿の13人」考察
歴史上の人物たちから学ぶ、新たな視点と生きるためのヒント 6-後編
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2022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。脚本は、『新選組!』、『真田丸』に続き、三谷幸喜氏が務めます。
舞台となるのは、平安末期から鎌倉時代前期。北条義時を主人公に、源頼朝の挙兵から源平合戦、鎌倉幕府の樹立、御家人による13人の合議制、承久の乱まで激動の時代を描きます。朝廷と貴族が政治の実権を握っていた時代から、日本史上初めて、武家が政治を行う時代へと突入する、まさに歴史の大きな転換点とも言うべき時代。ここから中世という時代の幕が開く歴史のターニングポイントを、三谷氏らしいコミカルな演出も交えながら描く、予測不能のエンターテインメントです。
このコラムでは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を深読みしつつ、ドラマの中に描かれる史実を取り出して解説します。そして、歴史上の人物たちの生き方や考え方から、現代に活用できる新たな視点を紹介していきたいと思います。
目 次
- 第1回から丁寧に描かれてきた曽我兄弟の仇討ち事件
- ちびっ子曽我兄弟も登場、積み重ねられる仇討ちの伏線
- 頼朝暗殺事件という側面を持つ曽我兄弟の仇討ち
- 本人の目の前で歴史の改ざんが行われる、曽我兄弟の仇討ち新解釈
- 教科書で習った歴史が正しいとは限らない
5. 第1回から丁寧に描かれてきた曽我兄弟の仇討ち事件
さて、ここまで義経伝説の成立を何度も描いてきたのと同じような手法で、まさに伝承が作られるその瞬間を見事に描いて見せたのが、曽我兄弟の仇討ち事件を描いた第23回「狩りと獲物」でした。
曽我兄弟の仇討ち事件とは、赤穂浪士の討ち入り、伊賀越えの仇討ちと共に日本三大仇討ちとされる有名な仇討ちであり、兄・曽我 十郎祐成(田邊 和也)と弟・曽我 五郎時致(田中 俊介)が父・河津 祐泰(山口 祥行)の仇である工藤 祐経(坪倉 由幸)を富士野で討った事件です。
鎌倉時代の中期~後期にかけて成立したと考えられる軍記物風の伝記物語『曽我物語』のほか、能や幸若舞曲には「曽我物」と称される一群が見られ、近世以降も曽我物は古浄瑠璃・浄瑠璃・歌舞伎などで好んで扱われる題材でした。
そもそものこの事件の発端については、第1回「大いなる小競り合い」から実は描かれています。工藤 祐経はもともと伊東 祐親(浅野 和之)の婿でした。第1回では、義時が八重(新垣 結衣)に好意を抱いていることを描く回想シーンとして伊東家の身内の宴の場面が挿入されていましたが、ここではまだ工藤 祐経は伊東家の婿として振る舞い、意気揚々と得意の音曲を披露していました。しかし、その後、妻と離縁させられ土地も奪われてしまったのです。京の大番役から帰って来たばかりの北条 時政(坂東 彌十郎)のもとへやって来て、そんな不幸な境遇について語っていました。時政は、数年前まで工藤 祐経と相婿の立場です。
時政のもとに現れた工藤 祐経は数年前とは異なり、着の身着のままと思われる不潔な身なりで、金銭的にもかなり困っている様子でした。そして、源 頼朝(大泉 洋)から伊東 祐親の暗殺を命じられた工藤 祐経は、第2回「佐殿の腹」で暗殺を試みるも失敗してしまいます。この場面では河津 祐泰を討ったようには見えませんでしたが、どこかで誤って殺してしまったのでしょう。
6. ちびっ子曽我兄弟も登場、積み重ねられる仇討ちの伏線
というのも、第17回「助命と宿命」で義時と八重のもとを訪れた工藤 祐経の後ろから「人殺し!」と叫んで石を投げ続ける曽我兄弟と思われる子どもたちが登場していたからです。どういうことかと問う義時に「私を親の仇とずっと恨んでおる」と、工藤 祐経は説明します。八重は「あの子たちは確か……」と、見当がついたようですが、「その話はいい」と工藤 祐経自身が八重の話を遮り、曽我兄弟についての詳細はこの時点ではまだ説明されません。このように細かな伏線を小出しにする形で、曽我兄弟の仇討ち事件を匂わせてきたのです。
そして、いよいよ第22回「義時の生きる道」で、大人になった曽我兄弟が時政に連れられて政子(小池 栄子)たちのもとを訪れます。この時は、鎌倉殿の御家人に取り立ててもらえるようにお願いすると時政は政子たちに説明しましたが、同じく第22回の中で実は兄弟は仇討ちを計画していることが明かされます。ここで初めて、時政の口から伊東 祐親を討とうとした工藤 祐経が誤って河津 祐泰を殺してしまったことが、はっきり事実として語られるのです。時政は「あっぱれ」とその仇討ちの心意気を褒め称え、時政の妻であるりく(宮沢 りえ)も「是非お討ちなされませ」と激励します。
ここまでは、いわゆる曽我物と特に相違なく話が進みます。ところが、この後で実は曽我兄弟の真の狙いが、工藤 祐経ではなく源 頼朝であるということが明かされます。曽我兄弟にとって、頼朝は祖父・伊東 祐親の仇でもあるのです。
7. 頼朝暗殺事件という側面を持つ曽我兄弟の仇討ち
仇討ちの現場として選ばれたのは、巻狩りを行う富士野でした。この富士野の巻狩りのほかにも、建久4(1193)年には、武蔵国入間野、下野国那須野、信濃国三原野と各地で大規模な狩りの催しが行われたことが『吾妻鏡』には記されています。
これは、征夷大将軍となった源 頼朝が、武家の棟梁としてその威光を坂東中に示す意味合いがあると共に、自らの後継者として嫡男である万寿(金子 大地)を、鎌倉殿の後継者として周囲に知らしめる意味合いもあったのではないかと考えられます。
『鎌倉殿の13人』では、鹿を射るのに一苦労、金剛(坂口 健太郎)が仕留めた鹿を細工して何とか万寿が射たかのように見せていましたが、『吾妻鏡』では「富士野の御狩の間、将軍の家督の若君、始めて鹿を射令(し)め給ふ」(建久4年5月16日条)という事実と、その後に執り行われた矢口祭だけが淡々と記されています。
そして、この矢口祭から10日余りが過ぎた5月28日の夜、いよいよ曽我兄弟の仇討ちが決行されます。『吾妻鏡』には、「子の刻、故伊東次郎祐親法師の孫子曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推参致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」、「十郎祐成は新田四郎忠常に合ひ、討たれ畢(おわ)んぬ。五郎は御前を差して奔(はし)り参る。将軍、御剣を取り、之(これ)に向かは令め給はんと欲す」(建久4年5月28日条)と記されています。
『鎌倉殿の13人』では、曽我兄弟が向かったのは最初から工藤 祐経のもとではなく、源 頼朝の寝所でした。向かう方角が違うことに気付いた仁田 忠常(高岸 宏行・『吾妻鏡』では新田)によって兄・十郎祐成は討ち取られます。
しかし、その争いの輪から抜けだし頼朝の寝所まで辿り着いた弟・五郎時致がそこに寝ていた人物を仇として討ち果たすという展開が繰り広げられました。これが、上記の『吾妻鏡』に記された箇所となります。
仁田 忠常は鎌倉殿が討ち取られてしまったものと動揺しますが、実は討たれたのは鎌倉殿の替え玉として寝ていた工藤 祐経で、当の鎌倉殿は比奈(堀田 真由)に夜這いをかけようとして無事だったというオチでした。
房総半島で襲撃を受けた際と同じく、頼朝が色恋沙汰にかまけていたおかげで命拾いをするという笑いを誘う展開でもあります。そして、為政者というより一人の男の私欲で取った行動が、頼朝の命を狙っていたはずなのに工藤 祐経を討ってしまうという取り違えを引き起こし、謀反ではなく今に伝えられるような“仇討ち”が実行されてしまうという皮肉な展開となっているのです。
8. 本人の目の前で歴史の改ざんが行われる、曽我兄弟の仇討ち新解釈
鎌倉殿の命を狙った謀反である以上は厳罰に処さねばなりませんが、これを公にすると幕府の支配を絶対的なものとして対外的にも知らしめたいこの時期に、「鎌倉殿をよく思わない武士が坂東にもまだまだ燻っている」ということを大々的に認めてしまうこととなり、鎌倉殿としては好ましい展開ではありません。これは、現在進行形で行っている巻狩りをすべて無に帰す行為です。
一方で、北条としても、時政が烏帽子親として曽我兄弟の仇討ちを応援し、兵を貸してしまったという負い目があります。この件を頼朝暗殺事件とした場合、「時政が鎌倉殿に対して謀反を起こした」と取られかねない恐れがあるのです。実際、曽我兄弟の仇討ち事件の解釈として、現代においても三浦周行氏や石井進氏により北条時政黒幕説が唱えられています。
これらの不都合をすべて丸く収めるには、義時の言うように「これは敵討ちを装った謀反ではなく、謀反を装った敵討ちにございます」と解釈するしか選択肢がないのです。梶原 景時が言い渡した沙汰は「父・河津 祐泰の仇、工藤 祐経を討ったこと、坂東武者として誠にあっぱれ。さりながら、恐れ多くも巻狩りの場で騒ぎを起こしたことは、到底許し難し。よって斬首とする」といった、およそ事実をねじ曲げたものでした。
これだけでも謀反を起こした者として噴飯やるかたない気持ちでしょう。さらに「おぬしら兄弟の討ち入り見事であった。まれなる美談として末代まで語り継ごう」と鎌倉殿本人に約束され、謀反の事実がまるでなかったことにされてしまっては、ただの無駄死にであり、斬首に加え精神的にもとても残酷で重い刑罰が下されたと言えるのではないでしょうか。
曽我兄弟八百年祭の碑 (曽我兄弟を祀る)
箱根 曽我神社曽我神社の由来 大泉寺 曽我兄弟 供養塔
そして、本人を前にして事実を塗り替えてしまうというこの予想もつかない結末によって、現代まで伝えられている歴史との齟齬もまったくなくなります。北条氏にとって都合の悪い事実は書かない『吾妻鏡』には当然この件の真実は記載されません。そして、その後、約束通りに曽我兄弟の仇討ちはまれなる美談として近代まで語り継がれることになるのです。新解釈で笑いを交えつつも最終的にまったく矛盾を生じないという見事な結末でした。
9. 教科書で習った歴史が正しいとは限らない
義経の鵯越の逆落としに関しては勘違いが発端で歴史の書き替えが起こりましたが、曽我兄弟の仇討ちに関しては、為政者の都合により事実が改ざんされるというドラマが展開されました。
実際、歴史家が正史として扱う史書にも当時の都合が反映されていると考えられます。『吾妻鏡』は鎌倉時代研究の基本史料とされますが、北条得宗家という鎌倉幕府で権力の中枢にあった人間たちの残した史料です。すべてを鵜呑みにすることはできません。これは、どの時代においても、どの国においても同じことが言えるでしょう。そのために歴史研究が必要になるわけですし、さらに最新の研究を反映する形で教科書も大きく書き換えられていきます。
子どもの頃に鎌倉幕府の成立は「イイクニ(1192)作ろう、鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えたという方も多いかもしれませんが、現在、鎌倉幕府の成立に関しては、頼朝が全国に守護・地頭を任命する権利を得た1185年説を採用する歴史の教科書も増えており、かつての常識が揺らぎつつあります。
大人になると、新しい教科書を手に入れてまで学ぶ機会は少ないことでしょう。しかし、長年常識とされてきたことが時には変わることもあるのです。子どもの頃から常識と信じてきたことを疑い、年齢を重ねてからも定期的に知識のアップデートをしていくというのも大切なことかもしれません。
並木由紀(ライター、小説家)
大学院では平安時代の文学や歴史、文化を中心に研究。別名義で『平安時代にタイムスリップしたら紫式部になってしまったようです』、『凰姫演義』シリーズ(共にKADOKAWA)など歴史を題材とした小説を手がける。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』