人生100年時代の生存戦略を読み解く「鎌倉殿の13人」考察
歴史上の人物たちから学ぶ、新たな視点と生きるためのヒント 7-前編
2022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。脚本は、『新選組!』、『真田丸』に続き、三谷幸喜氏が務めます。
舞台となるのは、平安末期から鎌倉時代前期。北条義時を主人公に、源頼朝の挙兵から源平合戦、鎌倉幕府の樹立、御家人による13人の合議制、承久の乱まで激動の時代を描きます。朝廷と貴族が政治の実権を握っていた時代から、日本史上初めて、武家が政治を行う時代へと突入する、まさに歴史の大きな転換点とも言うべき時代。ここから中世という時代の幕が開く歴史のターニングポイントを、三谷氏らしいコミカルな演出も交えながら描く、予測不能のエンターテインメントです。
このコラムでは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を深読みしつつ、ドラマの中に描かれる史実を取り出して解説します。そして、歴史上の人物たちの生き方や考え方から、現代に活用できる新たな視点を紹介していきたいと思います。
目 次
1. 初代鎌倉殿・源頼朝、突然の早すぎた死

その冷血非道な粛清ぶりにSNS上で「#全部大泉のせい」というハッシュタグまで生まれた源 頼朝(大泉 洋)が、第26回「悲しむ前に」でこの世を去りました。建久10(1199)年の1月13日のこと、享年53歳(満年齢では51歳)でした。
ここまで、武家のための世の中を作ろうと一丸となって戦ってきた坂東の武士たちは大きな旗印であった頼朝を失い、今後は若き後継者、二代目鎌倉殿の源 頼家(金子 大地)を御家人として支えていくこととなります。これにより、ドラマのタイトルでもある13人の合議制がいよいよ開始しますが、それは同時に鎌倉バトルロワイヤルのスタートでもありました。
2. 『吾妻鏡』では頼朝の死に関する記事が欠落している

『鎌倉殿の13人』は基本的に『吾妻鏡』をベースに描かれています。しかし、現存する『吾妻鏡』の写本には、頼朝の死が描かれていません。頼朝が没する時期、建久7(1196)年正月~建久10(1199)年正月の記録が欠落しているためです。建久6(1195)年12月22日条の次は、1199(建久10)年2月6日条で、「頼家が左近衛中将に任じられ頼朝の跡を継いだ」という記事へと飛んでいます。
頼朝の死去について、『吾妻鏡』では、13年後の建久2(1212)年2月28日条になってようやく過去の話として軽く言及されます。
「相模川の橋の修理をした方がよいという提案が三浦義村からあった。『この橋は、新造された時に故将軍家(=頼朝)が橋供養の結縁にお出かけになられ、その帰り道に落馬してほどなく亡くなられた』(故将軍家、渡御し、還路に及び御落馬有り、幾程を経ず薨じ給ひ畢んぬ)、『不吉だから修理する必要はないのではないか』と御家人の間で意見が一致したものの、実朝の命により修理されることになった」という形でほんの少しふれられているだけなのです。
そのため、頼朝がどのようにして亡くなったのかは他の史料に頼るしかありません。
3. 死因は落馬か?それとも病死か?
このように、『吾妻鏡』には落馬して亡くなったことしか記されていないため、頼朝の死因について、これまでさまざまな説が唱えられてきました。
病死説(『明月記』・『愚管抄』・『百錬抄』・『猪隈関白記』)、怨霊の祟り説(『保暦間記』)などが当時の記録には見られます。また、後世になって暗殺によるものではないかという説も生まれました。『吾妻鏡』に詳細な記録がない以上、頼朝の死の真相は今となってはわかりません。
『鎌倉殿の13人』にも登場する慈円(山寺 宏一)の記した史論書『愚管抄』には、「関東将軍(=頼朝)所労不快とかやほのかに云し程に、やがて正月十一日に出家して、同十三日にうせにけりと、十五・六日より聞へたちにき」とあり、15~16日に頃には頼朝死去の噂が朝廷側にも伝わっていたことが伺えます。また、朝廷に仕える貴族である近衛家実の日記『猪隈関白記』には「飲水の重病によって」と記されており、朝廷側は頼朝が病で亡くなったと把握していたようです。
第27回「鎌倉殿と十三人」で土御門 通親(関 智一)から頼朝死去の報告を受けた後鳥羽上皇(尾上 松也)は、「急すぎるな、殺されたか。いや、今、頼朝が死んで得をする者は鎌倉におらぬ」と暗殺説を一蹴。「事故? それも隠し通さねばならないような。頼朝は武家の棟梁。武士にあるまじきこと……馬から落ちたか」と疑念を抱きつつ、4年前の上洛時の頼朝の様子を思い出し、そこからひとつの推論を導き出します。
「あの時、よう水を飲んでいた。飲水の病と言えば、御堂関白藤原道長。水が足りぬとめまいを起こす。つながった」
と、病気による落馬ではないかと推測するのです。
後に承久の乱で北条 義時(小栗 旬)たちのラスボスとして立ちはだかる後鳥羽上皇。頭の切れるくせ者として印象づける初登場場面を用意したのでしょう。すべて後鳥羽上皇が推測したことになっていますが、朝廷側の貴族たちが残した記録を見るに、これが朝廷側の共通見解だったのではないかと思われます。
藤原道長の死因ともなった「飲水の病」は、今で言う糖尿病ではないかと考えられています。現代のような治療手段のない鎌倉時代で、4年前から糖尿病が発症していたとすれば、その間に動脈硬化は着々と進行していますから、脳卒中の発作を引き起こしても不思議はありません。
後鳥羽上皇が推理するように、武家の棟梁である頼朝が落馬して亡くなるなど、それこそ当時としては信じられないことでしょう。それゆえ、怨霊説や暗殺説なども生まれたのかもしれません。しかし、三谷氏はこれらの奇をてらった説ではなく、オーソドックスに病気+落馬説を採用しました。
当時の朝廷側の記録と後の『吾妻鏡』の記録を組み合わせて読めば、これがもっとも自然な推測ですし、真実に近いのではないでしょうか。
4. 御霊信仰によって生み出された怨霊説
病気+落馬説は、現代の我々にとっても受け入れやすいものです。逆に、怨霊の祟りというのは、現代のフィルターを通すと突飛な説に思えるかもしれません。
しかし、後白河法皇の生霊が何度も描かれたように、当時は生霊すら実在が信じられていた時代ですので、当時の考え方としては自然な説です。ここで、怨霊説についても少し紹介しておきましょう。
『保暦間記』では、橋供養の帰り道に源 義経、源 行家らの亡霊が現れ、さらに稲村ヶ崎に至ったところで現れた安徳天皇の亡霊が「今こそ(頼朝を)見つけたぞ」と叫んだために、鎌倉に戻った頼朝は病の床についてしまったと描かれています。登場した亡霊たちは、皆、頼朝に対して恨みを持った人物ばかりなので、当時としてはさもありなんといったところでしょうか。
この時代、不遇の死を遂げた人物は怨霊となって祟りをなすものと信じられていました。これを“御霊信仰(ごりょうしんこう)”と言います。平安時代、無実の罪をきせられて流罪となった菅原道真は失意のうちに太宰府でその一生を終えることとなりました。その後、菅原道真を陥れた藤原摂関家一族の変死が続いたことで、彼らは菅原道真の祟りではないかと恐れおののき、天満宮に神として菅原道真を祀ったのです。今では学問の神様として崇敬される菅原道真も、祀られるようになったのは怨霊騒ぎがきっかけでした。
源 義経(菅田 将暉)も安徳天皇(相澤 智咲)も、源 頼朝によって命を落とした人物です。源 行家(杉本 哲太)は、いわゆるナレ死での退場ではありましたが、彼もまた頼朝の命で討ち取られた人物です。第19話「果たせぬ凱旋」で義経に近付き、頼朝に対する疑心を煽った後、鎌倉方に討ち取られました。
『保暦間記』に登場する亡霊をはじめ、源 範頼(迫田 孝也)や上総 広常(佐藤 浩市)など数多くの人々を殺めてきた頼朝ですから、祟られたとしても仕方がないというのが鎌倉時代の感覚だったのではないでしょうか。
ちなみに、源 義経の御霊は、橋供養を行った地からほど近い茅ヶ崎市の御霊神社に祀られています。もともとは、鎌倉権五郎景政という平安末期の武将の御霊を祀った神社ですが、怨霊となった義経の霊を慰めるため合祀されたのだと伝えられています。
7-後編 に続く
並木由紀(ライター、小説家)
大学院では平安時代の文学や歴史、文化を中心に研究。別名義で『平安時代にタイムスリップしたら紫式部になってしまったようです』、『凰姫演義』シリーズ(共にKADOKAWA)など歴史を題材とした小説を手がける。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
