人生100年時代の生存戦略を読み解く「鎌倉殿の13人」考察
歴史上の人物たちから学ぶ、新たな視点と生きるためのヒント 10-前編
2022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。脚本は、『新選組!』、『真田丸』に続き、三谷幸喜氏が務めます。
舞台となるのは、平安末期から鎌倉時代前期。北条義時を主人公に、源頼朝の挙兵から源平合戦、鎌倉幕府の樹立、御家人による13人の合議制、承久の乱まで激動の時代を描きます。朝廷と貴族が政治の実権を握っていた時代から、日本史上初めて、武家が政治を行う時代へと突入する、まさに歴史の大きな転換点とも言うべき時代。ここから中世という時代の幕が開く歴史のターニングポイントを、三谷氏らしいコミカルな演出も交えながら描く、予測不能のエンターテインメントです。
このコラムでは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を深読みしつつ、ドラマの中に描かれる史実を取り出して解説します。そして、歴史上の人物たちの生き方や考え方から、現代に活用できる新たな視点を紹介していきたいと思います。
目 次
1. 実朝の悩みは何だったのか? 泰時に和歌を贈る実朝
前回の記事では、3代将軍・源 実朝(柿澤 勇人)の抱える悩みと、三谷氏が描こうとしている新しい実朝像についてご紹介しました。では、歩き巫女(大竹しのぶ)の言葉に涙した、実朝の抱える悩みとはいったいどのようなものだったのでしょうか。第39回「穏やかな一日」で、その謎が明かされていきます。
オープニングのナレーション(語り・長澤まさみ)では、「大海の 磯もとどろに 寄する浪 破(わ)れて砕けて 裂けて散るかも 源実朝」と、実朝の代表作が紹介されました。実朝と言えば、「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人(あま)の小舟の 綱手かなしも」という歌が百人一首にも歌が撰ばれているほどの和歌の名手です。冒頭で紹介されたこの歌も有名な歌ですので、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。そして、それゆえに、「雄大な景色を詠んだ実朝の代表歌を冒頭で紹介しただけか、今日は実朝の歌人としての側面を紹介していく回なのかな?」と、さらりとこのナレーションを聞き流してしまった方も多いかもしれません。しかし、実はこのよく知られている歌が、新しい実朝像を読み解く上で重要なキーとして使われていたのです。
承元2(1208)年 2月、疱瘡を患い一時は命の危機に瀕した実朝は無事回復します。実朝が評議の場に復帰すると、太田庄(備後国、現在の広島県世羅郡世羅町)の年貢の取り立てを地頭が妨げていることを高野山が長年訴えてきていると三善 康信(小林 隆)は伝えます。北条 義時(小栗 旬)は、「太田庄の年貢は亡き後白河法皇さまの供養を行うためのもの、それを邪魔立てするのはいかがなものか」と意見します。太田庄の地頭は、三善 康信。そこで、実朝は「太田庄の代官を庇いたい気持ちはわかるが……」と三善 康信に同情的な言葉を投げかけますが、それを遮るように義時は「道理は高野山にあります。ここは高野山の言い分を聞いてやりましょう」と、実朝の意見を聞かずに事態を収めてしまいます。
これは、『吾妻鏡』によれば承元3 (1209)年3月1日のこと。『吾妻鏡』では、高野山の使者と三善 康信の代官が実朝の御前近くで口論となったため両名とも退去を命じられ、しばらく審理を差し置くようにと実朝が「直に仰せ下され」たと記されている一件です。この記述は将軍親裁の好例であり、将軍親裁の開始とも位置づけられてきました。しかし、『鎌倉殿の13人』では、事を収めたのは義時です。実朝は政務に積極的に参加しようとしたものの、その言葉を義時に遮られた形になってしまい、自分はただ花押を書くだけの存在に過ぎないのか、本当に将軍として役に立っているのだろうかという苦悩を見せる場面へと改変されていました。
しかし、これはおそらく意図を持った改変でしょう。この若き将軍としての苦悩は、プライベートな苦悩をも視聴者に見せていくきっかけともなっているのです。落胆したような表情を見せた実朝は、「私はいてもいなくても同じなのではないか」と、北条 泰時(坂口 健太郎)に将軍としての葛藤を打ち明けます。
「そんなことはありません」と励まされた実朝は、泰時に歌を贈ると「(返歌を)楽しみにしている」と告げます。「歌でお返事するのですか?」と問う泰時に、それ以上は答えず実朝は照れたような表情を浮かべ立ち去るのでした。
この場面では、実朝が贈った和歌の内容は明らかにされません。しかし、この和歌の内容こそ、かつて歩き巫女のおばばに指摘された悩みの真相でもあったのです。
2. 兄の言葉に縛られ権力を手中に収めた義時と“御内人”誕生のいきさつ
一方、早世した兄・北条 宗時(片岡 愛之助)と最後に交わした言葉、「板東武者の世を作る。そして、そのてっぺんに北条が立つ」に縛られたかのように動く義時は、「兄上は、坂東武者の頂に北条が立つことを望まれていました。私がそれを果たします」と政子(小池 栄子)に宣言し、今まで以上に北条の権力を強固なものにしようという姿勢を見せます。
泰時に仕える鶴丸(きづき)に「平盛綱」という諱(いみな)を付け、さらに御家人になりたいと願う鶴丸の望みを叶えようと画策します。「切的(きりまと)の技競べ」という弓の競技に紛れ込ませ、活躍次第で鎌倉殿に掛け合うと約束するのです。義時には、今の自分に対して鎌倉殿が逆らうなどあり得ない、何でも言うことを聞くはずだという自負があったのでしょう。
しかし、ことは義時の思うようには運びません。鶴丸(平盛綱)は切的の技競べで見事な活躍を見せるのですが、勝利の喜びを分かち合い泰時と抱き合う鶴丸を見た実朝は複雑な表情を浮かべます。
「あの盛綱というのは?」と問う実朝に対し、あの者は泰時の幼なじみで功績のある北条の家人だと持ち上げ、御家人にしてやりたいと義時は願いを申し出ます。しかし、義時の意に反し、「それはならん。分不相応の取り立ては災いを呼ぶ」「一介の郎党を御家人に取り立てるなどあり得ぬ」と、実朝にしては珍しく強い口調で却下します。
このやりとりは、『吾妻鏡』承元3(1209)年11月14日条に記録されています。「相州(=義時)」が自分に長年仕えている郎従のうち功のある者を「侍に准ずるべきの旨、仰せ下さるべきの由(御家人の身分である侍に准じるよう鎌倉殿から命じてほしい)」と望んだというのです。しかし、義時の望みを叶えることは幕府内の身分秩序を乱すことになり、「後難を招くべきの因縁なり」と言って実朝は反対し、今後も許すことはないと命じたと記されています。
この実朝の言葉を根拠として、今後も、北条に仕える郎従が御家人に取り立てられることはなく、平盛綱の子孫は御家人ではなく“御内人”として北条得宗家に仕えていくこととなります。
それでも第9代執権北条貞時の時代には、平盛綱の孫に当たる平頼綱が御内人の筆頭格の内管領として権力を握り、御家人を滅ぼす「霜月騒動(※)」を起こすほどになります。後の歴史を知っている現代人の視点で見れば、義時の判断より実朝の政治的な判断の方が正しかったということになるのです。
※鎌倉時代後期、弘安8(1285)年11月17日に鎌倉で起きた政変。平盛綱の孫である平頼綱によって、有力御家人の安達泰盛とその一族が滅ぼされます。安達泰盛は、伊豆で源頼朝を流人時代から支えた側近・安達盛長(藤九郎)の子孫にあたります。
10-中編 に続く
並木由紀(ライター、小説家)
大学院では平安時代の文学や歴史、文化を中心に研究。別名義で『平安時代にタイムスリップしたら紫式部になってしまったようです』、『凰姫演義』シリーズ(共にKADOKAWA)など歴史を題材とした小説を手がける。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』